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第31回:中山可穂さん

すべては健さんのせい
<プロフィール> 中山可穂(なかやま かほ)
1960年生まれ。早稲田大学教育学部英語英文科卒。93年『猫背の王子』でデビュー。95年『天使の骨』で朝日新人文学賞、2001年『白い薔薇の淵まで』で山本周五郎賞を受賞。その他の作品に『マラケシュ心中』『弱法師』『ケッヘル』『サイゴン・タンゴ・カフェ』『悲歌』『愛の国』など。研ぎ澄まされた文体、深い叙情性、幻想的イマジネーションといった独特の作風で、読者の熱い支持を集めている。

購入書籍No.   12345678

【1】『憂魂、高倉健』(国書刊行会)

『憂魂、高倉健』

 一軒目は宿泊ホテルに近い紀伊國屋書店新宿本店。ここは遠い昔、青春時代の思い出の書店だ。紀伊國屋ホールに芝居を観に来ると、開演前にまずは地下のカレー屋さんでトマトカレーを食べてから、7階の演劇書コーナーによく行った。当日券のときは細長い階段に並んだものだった。ああ、懐かしい。猛烈にあのトマトカレーを食べたいけれど、本日はスケジュールがぎっしりで、その時間はない。今回もまっすぐ七階へ直行。開店早々の朝の本屋さんは、人が少なくていいですね。昔と配置は変わっているが、演劇・映画の本がずらりと並んだ棚の前に立つと、すうっと酸素が薄くなり、ほんのわずか血の気が引いて、あの頃の息苦しさやよるべなさがたちまち甦ってくる。いや、紀伊國屋ホールを擁するこのビルの中に入っただけで(実にウン十年ぶり?)、叶わなかった夢の残骸を見るような、届かなかった知の要塞に押し潰されるような、ほろ苦い悲しみにも似た感情につつまれる。わたしをこんな気持ちにさせる本屋さんは、おそらく日本でここだけだろう。
 ところでわたしはかなり優柔不断な性格である。その場で3万円分の本を選ぶとなると1日かかっても終わらないおそれがあり、同行者に迷惑をかけてしまうため、あらかじめ欲しい本のリストアップをして在庫確認と本の取り置きも済ませていた。とはいえ、最初にリストアップした本を買うだけでは企画上おもしろくない。売り場で思いがけない本に呼ばれることもあるわけで、その分を見積もって数千円分の余白を残してある。
 棚を物色して歩くわたしを、遠くから本の雑誌のハマダさんが盗撮でもするようにこっそりカメラを向けている。邪魔をしてはいけないと気を遣ってくれているのか、わたしと目が合うとそわそわと視線を逸らし、大きな体で棚の後ろに隠れる様子が尾行の下手な新米探偵さんみたいで、なんともかわいらしい。
「おおっ、これは!!」
 感嘆の声とともにわたしが棚から一冊の本を抜き取ると、売り場にちらばっていたハマダさんや同行者たちがさっと集まってきた。
「ううう、これ欲しい。でも高い。でも欲しい。でも高い。ていうか、高すぎる......」
 わたしが呻きながら抱きしめているのは、横尾忠則編による函入りの豪華本『憂魂、高倉健』。帯には「幻の写真集がついに復活!」だの「横尾忠則のこの恐るべき執念は、なぜか?」だのと煽るコピーが躍っている。いきなりとんでもない本に呼ばれてしまったわけだ。
「これ、15,000円ですよ。消費税入れたら16,200円。一気に半分以上使っちゃうことになりますよ。いいんですか、そんな大胆な買い方しちゃって」
 大胆といえば、いきなり3万円の法隆寺金堂壁画本をお買いになった池澤夏樹氏の豪胆さには負ける。未熟な小心者の自分にはとてもあんな買いっぷりはできない。あれに比べたら、15,000円の高倉健など可愛いものではないか、と自分とまわりに言い聞かせる。
「え、可穂さん、高倉健好きなんですか」
 そうだ。わたしは健さんが好きだ。そういえば横尾さんも宝塚ファンとして有名だ。宝塚と高倉健には実は共通点がある。こてこての様式美だ。わたしは様式美にとことん弱い。

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【2】『近松門左衛門名作文楽考(2)心中天網島』(講談社)

『近松門左衛門名作文楽考(2) 心中天網島』

 「まあ、こういう本はこういうときでもないと買えないでしょうから」
 という声に背中を押されて買うことにしたが、これを買うと予定が全部狂ってしまう。明らかに今後文庫化されるだろうと思われる本は真っ先にはずし、同じシリーズの本は一冊だけにして......という具合に取捨選択して残ったのは『近松門左衛門名作文楽考(2)・心中天網島』。これは素浄瑠璃のDVDつきというところに惹かれた。本当は(1)の女殺油地獄もセットで欲しかったけど、健さんのせいで割愛。

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【3】『山口組組長専属料理人 側近が見た渡辺五代目体制の16年』(メディアックス)

『山口組組長専属料理人 側近が見た渡辺五代目体制の16年』

 『山口組組長専属料理人』は小説の資料として。

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【4】『バルのスペイン語』(三修社)

『バルのスペイン語』

 『バルのスペイン語』を選んだのは、『愛の国』の取材でおこなったスペインのサンティアゴ巡礼を、いつかもう一度やってみたいから。英語はほぼつうじないことを実感したので、とりあえずバルで使えるスペイン語がわかれば何とかなるだろう。紀伊國屋では以上4冊。田中長徳『屋根裏プラハ』など他にも呼ばれる本はあったが泣く泣く断念。

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 午後から別の仕事を挟んで、2軒目の丸善ラゾーナ川崎店へ移動。このお店を選んだのは、中山可穂応援フリーペーパーの発起人の1人であり、常から大変お世話になっているカリスマ書店員のTさんがいらっしゃるからである。本当ならTさんのお店でたくさんの本を買いたかったのだが、健さんのせいであと6,456円しか残っていない。ごめんねTさん。
「聞いてますよ。高倉健、買っちゃったんですよね? 全然気にしないでください」
 と、Tさんは先頭に立って売り場を案内してくれた。職場にいるTさんを見るのは初めてで、ひそかに制服姿を楽しみにしていたのだが、それは廃止されたそうで、白シャツに黒いエプロンといういでたちが爽やかでかっこいい。長い髪を大量のピンで機能的にまとめ、大きくて賢そうな目をクルクルと動かしながら売り場を闊歩し、戦闘態勢に入っているTさんの全身からはこれぞ正しき書店員という知的な色香が溢れ出ていて、思わずガン見してしまった。

【5】『ことり』(朝日新聞出版)

『ことり』

 小川洋子『ことり』はTさんのおススメだ。わたしは京都で初めてカワセミを見てから、野鳥撮影にはまっている。長いスランプ期間を支えてくれたのはファインダー越しに見つめるカワセミやルリビタキやジョウビタキやエナガやモズといった野鳥たちである。自分がまさか五十代になって野鳥を追いかけるようになるなんて、紀伊國屋の階段に並んでいた二十代の頃の自分には想像すらできなかっただろう。小説家になることもまた。
 Tさんに導かれて野鳥関係の棚へ移動。『鳥類学』は実に中身の詰まった立派な本で、これ一冊あればどんなに重宝するかと思わず見入ってしまう。
「高倉健に比べたら、これで5,000円は安いですよ。実に良心的な値段じゃないですか」
「確かに安い! 安すぎる!」
「こんなに安くて儲けが出ているのか!」
 とみんな興奮している。いやこの本が安いというより、高倉健が高すぎるんだけどね。よく眺めてみると鳥の骨格まで詳細に図解されており、いくら何でも趣味の野鳥撮影にそこまでの専門知識は必要ないので却下。『フランスの美しい鳥の絵図鑑』にも手が伸びる。15,000円の高倉健のあとでは、これだけの内容で3,800円ってすごく安いと思えてしまう。『鳥脳力』もおもしろそうだ。でもことごとく諦めざるをえない。すべては健さんのせいだ。ああ、あれさえ買わなければ......。

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【6】『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』(白水社)
【7】『亡命ロシア料理』(未知谷)

『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』『亡命ロシア料理』

 取り置きを頼んでいた『哲学者とオオカミ』と『亡命ロシア料理』は前から読みたいと思っていたもので、これははずせない。

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【8】『ヤクザ1000人に会いました!』(宝島sugoi文庫)

『ヤクザ1000人に会いました!』

 『ヤクザ1000人に会いました!』は小説の資料として(次回作への妄想と期待が膨らみましたね)。丸善では以上4冊。ここで打ち止め。紀伊國屋で買った分とあわせて合計8冊、しめて30,615円(税込)なり。

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 結局、Tさんに取り置きを頼んでいた『若冲百図』も『料理=高山なおみ』も橋本治『浄瑠璃を読もう』も買えずに終わった。すべては健さんの......いや、もうよそう。Tさんは出口まで見送りに出てくださり、わたしたちがエスカレーターから見えなくなるまで、惚れ惚れするような美しい姿勢を維持したまま見送ってくださった。
 帰りの新幹線の中で、わたしはもう自らの選択ミスを悔やむことになった。買えずに諦めた本のことと、食べ損ねたトマトカレーのことをいつまでも未練がましく考えていた。買った本より買わなかった本のほうが気になるのは、つきあって深い仲になった人よりも、片思いで終わった人のほうがいつまでも心に残っているのと同じかもしれない。そして人生には、読めなかった本、書けなかった小説、想いがつうじなかった人のほうが、圧倒的に多いのである。

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