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第29回:池澤夏樹さん

我が書斎の法隆寺
<プロフィール> 池澤夏樹(いけざわ・なつき)
1945年、北海道帯広市生まれ。1978年、詩集『塩の道』でデビュー。1984年に初の長編小説『夏の朝の成層圏』を発表。1988年に第98回芥川賞を受賞し、以降、小説、エッセイ、紀行など幅広い分野で活躍する。2001年の9.11同時多発テロ の後、メール・マガジンによる時事的エッセー「新世紀へようこそ」を配信。イラク戦争開始前には、反戦を訴えて『イラクの小さな橋を渡って』を緊急出版した。池澤夏樹=個人編集「世界文学全集」全30巻(河出書房新社)で毎日出版文化賞を受賞。現在、池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」(河出書房新 社)を刊行中。

購入書籍No.   1

【1】『法隆寺金堂壁画』(岩波書店)

『法隆寺金堂壁画』

 さて、3万円問題。
 ともかく丸善の売り場を歩いて棚を見よう。
 目移りを抑えて店内をうろつく。
 さんざ迷って棚から棚へとさまよったあげく、美術書のコーナーまで行った時、一冊の本のタイトルが目に飛び込んできた。高いところにあってとても大きい。これは今の自分がいちばん欲しい本かもしれない。新刊ではないようだし、それならば書評の対象にはならない。つまりいつものように買うものではない。

 法隆寺金堂壁画

 棚から降ろして、段ボールのケースから箱を出し、本体をそっと抜いて、中を見る。汚さないよう、爪の跡もつけないよう、ページを繰る。その時にはもう3万円問題は頭になかった。
 2年ほど前に伊勢神宮に行った時、単純で飾りのない白木の直線的なデザインを美しいと思った。20年に一度建て替えるというポリシーも潔い。しかし何かが足りない。遷宮という方針を1300年に亘って貫いたのは立派だが、そこには別の力が働いていなかったか。そうすることによってしか守れない日本固有の文化という守勢の考えはなかったか。  それは一種の疑いだった。
 ぼくは電車を乗り継いで奈良に行き、法隆寺を見た。建築として圧倒的な力がある。素人っぽい言いかただが、部材の数と密度だけで伊勢の神社とは一桁も二桁も違う。文明とはこういうものを生み出すのかと感嘆した。
 これに対抗して日本的なるものを維持してゆくとすれば、まったく別の原理を採用するしかない。それが20年ごとの更新、伝統を守ってしかし新しいというあのやりかただったのではないか。
 法隆寺はすごい。これはどの古刹についても言えることで、たまたま縁があった寺に熱を上げるということでしかないのかもしれないが、それでもあの境内にいる間は特別な時間に思われる。
 で、金堂の壁画だ。
 驚いたことに『法隆寺金堂壁画』は3万円ちょうどだった。なんという幸運。これ一冊で買い物は終わってしまう。やはり丸善日本橋店はぼくにとって恩恵のスポットらしい。

 家に持って帰ってページを開いて、すっかり取り込まれた。
 美しいのだ。
 仏だから性を超越しているはずだが、顔も姿態も強烈な色気を放っている。第1号壁の左脇侍菩薩などほれぼれと見惚れて時間がたつのを忘れた。第7号壁の聖観音菩薩は剥落して目の部分がない。鼻と口と顎の線しか見えないのに、それがなんとも美貌。
 そして気付いたのだが、これはもうぼくの本だからいつまで見ていてもいいのだ。この独り占め感がなんとも言えない。
 先日の東京国立博物館の「日本国宝展」は、並ぶものはさすが名品ぞろいだったがなにしろ人が多くておちついて見た気がしなかった。目録にあっても実物を見つけられないものがある。空いている展示だけ見て、誰もいない平等院の飛天の前にしばらく佇んでようやく満足したことだった。
 法隆寺の壁画が本になってありがたいのは、近くに寄って見られるところだ。一ページが33.4センチ×25.4センチと判型が大きいし、同じ絵でも全体から顔のアップまで何段階もある。細部がくっきりとわかって、損傷の激しい絵でも充分に観賞に堪える。1300年前に描かれた時のまばゆさが想像されて、初めてこの絵の前に立った人の恍惚感を共有できる。たしかにここには極楽がある。
 この仏たちはみな唇がぽってりしている。それが官能的な印象につながるのだが、解説の文章を読んでこれが「インド風」という様式であることを知った。そう言われてみればなるほどこれはインド系の顔だ。北アジアの人々はこんな唇はしていない。隋と唐の時代の中国人が仏教に夢中になって、ついでに仏教美術にも夢中になって、力を込めてその様式を移入し、模した。それが日本にまで伝わった。
 ここまで惚れ込むと解説の論文もていねいに読むことになって、これがまたおもしろいのだ(もともとぼくは学者の仕事が好きで無知蒙昧を承知ですぐに首を突っ込むのだが)。
 こういう壁画を描く技術のことが詳細に書いてある。下地を作るのが塗白土画師、そこに下図を描くのが木画師、輪郭を描くのが堺画師、そこに色を施すのが彩色画師と分業になっていて、中には二つを兼ねる者もいたとか。
 彼らの名前まで伝わっていることに感動した。上村主牛養さんはどんな人だったのだろう? あるいは牛鹿足嶋さん、河内石嶋さんは?
 法隆寺の金堂は昭和24年に焼けて壁画の多くは失われた。この本はその前に撮影されていたガラス乾板による写真を元に作られたもので、それが残っていたのもありがたいことだと思う。
 自分の書斎に法隆寺があるって、こんな贅沢なことはない。

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