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第13回:堀江敏幸さん

息は足りていた
<プロフィール> 1964年、岐阜県生れ。1999年『おぱらばん』で三島由紀夫賞、2001年「熊の敷石」で芥川賞、2003年「スタンス・ドット」で川端康成文学賞、2004年同作収録の『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞、木山捷平文学賞、2006年『河岸忘日抄』、2010年『正弦曲線』で読売文学賞を受賞。おもな著書に、『郊外へ』『いつか王子駅で』『めぐらし屋』『バン・マリーへの手紙』『アイロンと朝の詩人―回送電車III―』『未見坂』『彼女のいる背表紙』『書かれる手』ほか。

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【1】『東京随筆』(毎日新聞社)

『東京随筆』

 さて、大本命「はらたいら」ではない「原平」さんは、高田馬場には学生の匂いがあり、そのおおもとは早稲田大学にあると至極まっとうな指摘をし、「昔はその名の通り、田んぼ地帯だったというから、そこに投入された学生の匂いは、もっと新鮮に際立っていることだろう」と続けている。早稲でも晩稲でも、たしかに学生はにおう。それを「臭い」と表記しなかったところに、赤瀬川原平のやさしさがあると見ていいのだろうか。ただし、大学の近辺から高田馬場まで伸びる早稲田通りには、よい「匂い」のする店がたくさん並んでいて、いまはだいぶ様変わりしてしまったけれど、昭和時代にはフライ、ハンバーグ、カレーを中心にした、どちらかと言えば男子学生向けの、料理の「匂い」と身体の「臭い」がまじりあうような店が軒を連ねていた。

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【2】『ジュージュー』(文藝春秋)

『RDG』

 匂いに惹かれて、よしもとばななの『ジュージュー』を手に取る。「ジュージュー」は作中に登場するステーキハウスの名だ。語り手「私」の祖父がはじめた店で、当初は「テキサス」だったのを父親が改名した。六年前に亡くなったママ、つまり母親が朝倉世界一の漫画『地獄のサラミちゃん』の熱烈な愛読者だったからだという(本書のカバー装画はサラミちゃん)。ほどよい価格の和牛の、いろんな部位をあわせてパン粉と卵だけでつなぎ、丁寧に手でこねた秘伝のハンバーグ。ソースは軽めのデミグラス、付け合わせはにんじんのグラッセといんげんのバター炒めだけ。初出は「文學界」2011年4月号だから、発売は3月初旬である。あの日以後の、国産牛に立ちはだかる困難を乗り越えて、「ジュージュー」にはぜひ従来の方針で頑張ってもらいたいと思う。

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【3】『家出の道筋』(水声社)

『家出の道筋』

サラミちゃんが地獄から家出してきた娘という設定だったこともあって、ジョルジュ・ペレックの短篇集『家出の道筋』に手を伸ばした。筋を、線を引くためには、点を結んで行かなければならない。1947年5月11日、11歳と2ヶ月になる少年ペレックは、パリ16区アソンプシオン通り18番地の自宅から家出を敢行した。なぜ自分は生家から離れて伯父と暮らしているのか。心の動きはほとんど描かれていない。移動中に立ち寄った場所に関する記述しかないという、意図的な空白のなかに、ユダヤ系の少年を襲った真実の重みが表現されている。1975年に発表したこの短篇に基づいて、ペレックは翌年、「ぼくは生まれた」と題する短編映画を制作した。後年の大きな作品につながる重要な一篇だ。

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 それにしても、場所やありふれたものごとの列挙が、なぜこうも胸を引き裂くのか。言葉を重ねれば重ねるほど実体が薄れていく。少年の日々にも、作家となってからの日常にも、ハンバーグの匂いや三枠の安心感はない。「ほんとうに起こっていること、われわれが体験していること、残りのこと、残りすべてのことはいったいどこにあるのか。毎日起こり、毎日繰り返されること、平凡な、日常的な、明瞭な、ありふれた、ありきたりの、並以下のこと、背景音、習慣的なこと、そうしたものをどうやって説明し、どのように問いかけ、どう描写したらいいのだろう」(酒詰治男訳)。ペレックが綴る日々は、なるほど平凡で起伏がなくて退屈そうに見える。しかし、この世から消えてしまった人々にとって、それは二度と手にできないものなのだ。退屈そうに見えるという意味での退屈は、ペレックの世界と無縁である。彼の作品を貫いている乾いた倦怠は、歴史的な悲劇を知ったあとにだけ顕現しうる、存在の根源的な場所に根ざした退屈さに近いものであって、もしかすると、サラミちゃんが地獄から地上にあがってきたのは、この「退屈」に遭遇したからかもしれない。

【4】『露西亜文学 (復刻版)』(慶應義塾大学出版会)

『露西亜文学 (復刻版)』

 そんなことを考えていたら、井筒俊彦の『露西亜文学』が目に留まった。昭和26年刊行の、慶應義塾大学通信教育部編『露西亞文學(一)』『露西亞文學(二・完)』、及び昭和23年の雑誌「個性」掲載論文を復刊、再編したとの説明がある。ゴーゴリの「退屈」について、井筒はこう書いている。「普通の平凡な退屈という現象を、ただ現象的な表面から見ているのでなく、そういう現象が出て来る根元を見ているのだ。そして、そのような深い次元に於いて捉えた退屈は実に怖ろしい或る不思議な力なのである。なぜなら、人生から一拳にしてその意義を剥奪し、あらゆる存在から一切の価値を奪い去るニヒリズムの真の源泉でそれはあるからだ」。  愚かな戦からいくらも日の経っていない日本では、「せーの、ドン」(@大橋巨泉)ですべてを運任せにするような賭け事ではなく、もっと破滅的な結末をもたらす可能性のある、退屈の根源としてのニヒリズムに著者の心は向いていったのかもしれない。

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【5】『ボヴァリー夫人』(河出文庫)
【6】『感情教育』上下(河出文庫)

『ボヴァリー夫人』『感情教育』

 1856年に発表されたフローベールの『ボヴァリー夫人』のなかにも、「実に怖ろしい或る不思議な力」としての退屈が潜んでいる。山田ジャク訳の『ボヴァリー夫人』は、《「散文」は生まれたばかりのものである》と題された蓮實重彦の解説とあわせて手元に置くべき1冊だろう。2年前に文庫化されたとき、親本があるからと流していたことを深く反省して、『感情教育』の上下巻とまとめて買った。
 ボヴァリー夫人ことエンマが味わっていた退屈と、彼女の夫、すなわちシャルルが苛まれていた退屈の、どちらがよりペレックの、ゴーゴリのそれに近いかと言えば、もちろん後者である。フローベールはある女性への手紙のなかで、「何についても書かれていない小説」という衝撃的な概念を披露していた。「外に繋がるものが何もなく、地球が支えられなくても宙に浮かんでいるように、自分の文体の力によってのみ成り立っている小説、出来ることなら、ほとんど主題を持たないか少なくとも主題がほとんど目につかない小説です」(蓮實訳)。

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【7】『逃避めし』(イースト・プレス)

『逃避めし』

フローベールがやろうとしていたことは、散文に慣れきってしまった現在の書き手にとっても困難なままだが、文学ではなく料理ならそれを乗り越えられるかもしれない。吉田戦車の『逃避めし』は、締切間際、なにもいまそんなものを作らなくてもという時に、仕事から逃げるようにして台所で作った、79の創作料理集である。ただ作りたいというだけの理由でこしらえた料理。つまり、「文体の力によってのみ成り立っている料理」がここに並んでいる。究極の幸福なニヒリズムの底には、やはり根深い退屈があるのだ。《人に「おいしい」といわれることを目的としない自己満足料理を、もっともっと作りたい》との「あとがき」の言葉は、かなり深い。歓喜としての退屈によって編み出される料理はどれも、ステーキハウス「ジュージュー」のハンバーグよりも美味しそうに見えるからだ。「ほとんど主題を持たない料理」こそが、真の料理なのである。

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【8】『ジーノの家 イタリア10景』(文藝春秋)

『ジーノの家 イタリア10景』

 とすれば、畑から収穫したばかりの果実を口に入れるのは、「生まれたばかりの料理」と解釈することもできるだろう。講談社エッセイ賞と日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した内田洋子の『ジーノの家 イタリア10景』に、シチリア島の畑で、そっと摘み取ったサボテンの実を食べる話がある。棘があるので1個ずつ手でもぐしか方法がない。「どんな仕事でも引き受ける北アフリカからの出稼ぎですら、サボテンの実だけは勘弁してほしい、と言うくらい、辛い」作業を経て口にできるサボテンの実と、それを煮つめたジャムの香りは-といって、私はその味を知らないのだが-、たぶん、乾燥しているようなのにしっかりした水分が含まれている本作の味わいに似ているだろう。

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【9】『トルコの詩』(国文社)

『トルコの詩』

 サボテンは沙漠地帯の気候に耐える。完全な沙漠ではないけれど、現代トルコの大半を占めるアナトリア高原は、昼夜の寒暖の差が激しく、暑く乾いた夏と雪の多い冬のせいで土地が痛めつけられ、痩せている。降雨量も少ないので、半分は沙漠のようなものだ。鬼海弘雄の写真集『アナトリア』やセミフ・カプランオール監督の「ユスフ三部作」の影響なのか、詩集の棚に差してあった『トルコの詩』が目について、サボテンの実のようにそっと摘み取ってみた。1994年の初版だ。ナズム・ヒクメット・ランの「アナトリヤ」に描かれているのも、小石だらけの痩せた土地の、貧しい暮らしの痕跡である。「おれたちは見た/木づくりの鋤には/大地は麦穂の/息吹をあたえぬことを」。

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【10】『蝉声 河野裕子歌集』(青磁社)

『蝉声 河野裕子歌集』

 しかし、風は吹く。どこへ行くのかわからない風が「いま ここを」、家出の道筋にも吹きすぎる。2010年8月に亡くなった河野裕子の最後の歌集『蝉声』にあるのも、サボテンのように摘まれた言葉だ。幸いなことに、大地はそこに豊穣な「息吹を」与えた。根源的な退屈は、死の直前まで歌を詠んだ人の息によって乗り越えられたとさえ見える。「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。息は足りている。どんなにすばらしい料理の匂いよりも満ち足りた息が、いまわたしの口から、肺から洩れる。足りていたのだ。足りていたからこそ、外に繋がる言葉が立ったのである。

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【11】『現代ウクライナ短編集』(群像社)
【12】『東京創元社文庫解説総目録』(東京創元社)
【13】『ハリウッド警察25時』(ハヤカワ・ミステリ)
【14】『ハリウッド警察特務隊』(ハヤカワ・ミステリ)

『現代ウクライナ短編集』『東京創元社文庫解説総目録』『ハリウッド警察25時』『ハリウッド警察特務隊』

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