もし手元に自由に使える3万円の図書カードNEXTがあったら、あなたならどんな本を買いますか?
このコーナーでは、そんな夢のような話を作家さんに体験していただき、どんな本を選んだかを大公開!
図書カードNEXTで本を選ぶ楽しみをあなたも疑似体験してください。
第22回:山田正紀さん
- 失われた一冊を求めて
- <プロフィール> 山田正紀(やまだ まさき)1950年、愛知県生まれ。74年に『神狩り』でデビューし、翌年、同作品で第6回星雲賞を受賞。82年に『最後の敵──モンスターのM・ミュータントのM』で第3回日本SF大賞を、2002年に『ミステリ・オペラ』で第2回本格ミステリ大賞および第55回日本推理作家協会賞をダブル受賞した。最近の著書に『ふたり、幸村』『復活するはわれにあり』などがある。
いまにして思えば、あれはこうなるための伏線だったのかもしれないと思う。
何の話をしているのか、と思われるかもしれないが─。
じつは数年まえ、私は岩波新書の「シリーズ日本近現代史(1)」『幕末・維新』をズボンの尻ポケットに入れて持ち歩き、忘れもしない『ダークナイト』を観るために映画館に入って、トイレに入り、ズボンをおろしたとたんに、それを便器のなかに落としてしまったのである。
まだ用を足すまえのことではあったが、それにしても大便器のなかである。
水死体のように浮いている『幕末・維新』を目にしたときのショックには尋常ならざるものがあった。
おもしろいからわざわざ持ち歩いていた本なのである。啓蒙されるところ大だと思ったからこそわざわざ映画館のなかにまで持ち込んだのだ。
それをこともあろうに、便器のなかに落としてしまった。
私はおのれの粗忽さをいたく恥じ、トイレットペーパーを何重にも手に巻いて、うやうやしく『幕末・維新』を便器のなかから拾いあげたのだった。
さて問題は、この『幕末・維新』の処遇をどうするか、ということである。
前述したように、ことを始めるまえの便器であれば、その水は泉水のように澄みわたっている。もちろん細かなことを言えば、大腸菌そのほか問題は少なからずあるにはちがいないが、見た目には何の支障もない。
なにより『幕末・維新』には何の罪もないのだからして、たとえば雨に濡れたとか、喫茶店でコップの水をこぼしたとか、そうしたトラブルに遭遇したときと同じに扱えばいいのではないか。つまり、たんに乾かして読めばいい。場合によってはドライヤーなどを使うのもいいかもしれない。
繰り返すようであるが、『幕末・維新』には何の罪もないのだ。
しかし、告白してしまうが、私にはそうするだけの善良さと、あえて言えば男気に欠けていた。『幕末・維新』に対して、あまりに不当な仕打ちと承知していながら、それをあっさりトイレのゴミ箱に捨ててしまったのである。心中、涙しながらの行為ではあるが、だからといって、その行為に免罪符が与えられようはずがない。子供のころから、本をなにより愛していると広言していた私が、その言葉をみずから裏切り、たかだか大腸菌こわさに、じつに良書といっていい『幕末・維新』を弊履のように捨て去ってしまったのだ。
あるいは人は─もしくは版元は─言うかもしれない。何をそのように悔やんでいるのか。新たに一冊を買い求めればそれでいいだけのことではないか。
が、それは違う。あの『幕末・維新』はあくまでもあの『幕末・維新』であって、よしんば同じ本であろうと他書をもってして代替されうるものではないのだ。これは本好きの方であればたちどころにわかっていただける心理状態だと思う。
あれから幾星霜、今回、思いがけず「3万円本買い放題」という夢のような企画をいただいて、私が真っ先に思い浮かべたのは、あの失われた『幕末・維新』のことだった。
あれは今回の企画のためのいわば伏線ではなかったか? 私がそう思うにいたった心理状態は容易に理解していただけるだろう。いまこそ私にはリベンジ(誰に?)の機会が与えられたのではないだろうか。
たしかに『幕末・維新』を買い直すことは、本に対する裏切りともいうべき私の卑劣な行為を、いわば隠蔽するにも等しいことであるだろう。が、それでは、「シリーズ日本近現代史」全10冊をさりげなく揃えることにしてはどうか。かのチェスタートンも「木の葉を隠すなら森のなかにしろ」と言っているではないか。『幕末・維新』に対する背徳行為も、他の9冊にまぎれ込ませて買うようにすれば、バレない(だから誰に!)のではないだろうか。
かくして私は勢い込んで横浜伊勢佐木町の有隣堂本店に乗り込んだのだった。
編集嬢が指先でひらひらさせる3枚の図書カードをその手からもぎ取るほどの意気込みをもってして─。
しかし何たることか、私はまたしてもおのれの卑劣さ、不誠実さを思い知らされることになってしまったのだ。つまり心変わりしてしまった。目移りしてしまった。
山田正紀さんが図書カードで購入した本
著書 | 著者/出版社 | 価格(税込) |
---|---|---|
『幕末・維新』 | 井上勝生/岩波新書 | ¥860 |
『民権と憲法』 | 牧原憲夫/岩波新書 | ¥798 |
『新版 単位の小事典』 | 高木仁三郎/岩波ジュニア新書 | ¥820 |
『工場』 | 小山田浩子/新潮社 | ¥1,890 |
『チャイルド・オブ・ゴッド』 | C・マッカーシー著、黒原敏行訳/早川書房 | ¥2,100 |
『シスターズ・ブラザーズ』 | P・デウィット著、茂木健訳/東京創元社 | ¥1,995 |
『ミステリガール』 | D・ゴードン著、青木千鶴訳/ハヤカワ・ミステリ | ¥1,995 |
『夜に生きる』 | D・ルヘイン著、加賀山卓朗訳/ハヤカワ・ミステリ | ¥1,890 |
『源氏物語と白楽天』 | 中西進/岩波書店 | ¥8,715 |
『河原ノ者・非人・秀吉』 | 服部英雄/山川出版社 | ¥2,940 |
『恐竜の飼いかた教えます』 | R・マッシュ著、新妻昭夫、山下恵子訳/平凡社 | ¥2,100 |
『宇宙エレベーターの物理学』 | 佐藤実/オーム社 | ¥2,520 |
『「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが解けた!』 | 古澤明/ブルーバックス | ¥840 |
合計 13冊 購入総額 ¥29,463 |
それでは各書籍について、購入の背景をじっくりと伺いましょう。